2月18日は“嫌煙”の日です。
「嫌煙権」という語句は、みなさんご存じでしょうか?
いまでは受動喫煙は被害であること、回避や撲滅が当然となっているので、逆に聞かなくなった言葉ではないかと思います。若い人は知らないのではないでしょうか。
実はこの言葉とその活動、禁煙運動の御大・「タバコ問題情報センター」の渡辺文学氏(当機構理事でもあります)とその仲間たちが、40余年前に始めたものです。
昨日2月18日は、その発足の日でした。(あえて“記念日”という表現は使いません。理由は後述)
発足について、渡辺理事がブログにまとめていますのでまずお読みください。(囲みは抜粋、「……」は文省略・太字化は引用者によります)
「嫌煙権運動」発足の日に思う
=『大自在荘通信』’20年2月18日=
“「1978年2月18日」、四谷駅近くの写真文化会館で「嫌煙権確立をめざす人びとの会」の発足集会が行われた日でした……私は、「嫌煙権」の名付け親の中田みどりさんに「文さん、今日の司会をやって下さいね」と言われました”
“「嫌煙権の三つの権利」(①タバコの煙によって汚染されていないきれいな空気を吸う権利/②穏やかではあっても、はっきりとタバコの煙が不快であるという権利/③公共の場所での喫煙の制限を求めるため社会に働きかける権利)を採択しました”
“会場には約60名ほど、日ごろタバコの煙に悩まされている市民、弁護士、会社員、教師、地方公務員などが参加して、「煙害追放」を訴えました……かなり寒い日でしたが、会場は超満員・そして新聞各社の記者とテレビ局が数社取材に来ており、特にテレビ局のライトと会場の熱気で、汗をかくほどだったことを今も鮮明に覚えています”
“この年から42年……禁煙(一部は分煙)が進んでおり、42年前と比較すると正に「隔世の感」があると言っても過言ではないはずです”
“しかし、タバコ会社も手をこまねいていません。2年ほど前から「加熱式タバコ」の拡販政策にシフトを変えて、……手を変え品を変えて市場獲得に血眼になっています。「煙と臭い少ない」「害もほとんどない」などと虚偽の宣伝・広告を行っており、新たな戦いが始まっています。
私たちのスタンスは、「タバコはタバコ」であり、あらゆるニコチン製品を無くしていく取り組みを継続していかなければならないと、決意を新たにしています”
なお、渡辺理事によりますと、朝のNHKラジオ「今日は何の日」で毎年必ず「嫌煙権運動の発足した日」であることを紹介してくれているそうです。
“嫌煙”の終焉を
2018年に開かれた、「40年」イベントには、私(『STOP受動喫煙 新聞』編集局・内藤)も参加し、『STOP受動喫煙 新聞』第23号 – 2018年(7月)夏号に、『“嫌煙権”40年、イベント開催 「嫌煙」時代の終焉へ』として紹介しています。
そこにも書いていますが、“周年”“記念”といった語は、使わないそうです。この運動が続いている、すなわち受動喫煙撲滅ができていない現状は、記念などとおめでたいことではないから、とのことでした。
それを聞いて、その少し前に発表された、“「嫌煙権」なる珍妙な語の存在する日本”という記述のある論説を思い出し、引用したものです。
その引用の元は以下です。
時代の風「分煙」が不可な本当の理由=藻谷浩介・日本総合研究所主席研究員
=『毎日新聞』2017年5月28日=
“分煙を認める論者は、「たばこを嫌う権利もあるが、たばこを好む権利もあるので、どこかで折り合いをつけるべきだ」と主張する。だがこの問題を好き嫌いのレベルで論じているのは、「嫌煙権」なる珍妙な語の存在する日本くらいではないだろうか。そうではなく、成人には「たばこを吸う権利」があるし、同時に、子どもや喫煙者も含む万人に、「他人の吐いた煙を吸わない権利」がある。そして、「他人の吐いた煙を吸わない権利」は、「たばこを吸う権利」に常に優先するのだ”
“「私にはたばこを好む権利がある」と言っても意味はない。どんなに好きでも、周囲の「他人の煙を吸わない権利」の方が優先だ。これは、「どんなに自分がお酒が好きでも、他人の口にアルコールを注いではいけない」のとまったく同じことである”
“裸になる権利があるが、他人に自分の裸を見ろと無理強いする権利はない。誰にでも歌を歌う権利があるが、マナーの観点で歌っていい場所は限られる。排せつは天与の権利だが、よほどの緊急事態でない限り飲食している他人の前でやってはいけない。これらはやれば権利の乱用であり、立派にハラスメントだ。他人にたばこの煙を吸わせることも、同じく権利の乱用である”
さて、いよいよ「嫌煙」が死語となるよう、受動喫煙などというものは、完全に撲滅することを、みなで進めましょう。