「嫌煙権」誕生から43年です
きのう2月18日は、1978年に「嫌煙権確立をめざす人びとの会」の発足集会が行われた、いわば「嫌煙権」誕生の日でした。
昨年の今日、渡辺文学「タバコ問題情報センター」代表(当機構理事)のその日のブログを紹介しましたが、
→2月18日は“嫌煙”の日です。
今年もこの日について書かれたということで、紹介いたします。(前回同様、囲み内は抜粋、「……」は文省略・太字化は引用者によります。)
今日は何の日=「嫌煙権運動」誕生の日
=『大自在荘通信』’21年2月18日=
“「今日は何の日」=「嫌煙権運動誕生の日」です
1978年2月18日、……
「嫌煙権確立をめざす人びとの会」の発足集会が行われました”“「嫌煙権」のキーワードが大きな反響を呼び、狭い会議室は、全国各地から参加したタバコ公害に悩んでいる人たちと、テレビ各社のカメラ、多数の新聞記者で、冬というのに、熱気あふれる集会となりました”
“司会・進行役を務めたのが私でした。ヘビー・スモーカーだった私は、前年の5月6日、運転免許証の1年停止となった日を機に、翌7日から、当時1日60本も吸っていたタバコと「断煙」し、以後今日まで44年間、ただの1本も吸っておりません”
“ 世の中には「偶然」という出来事が沢山ありますが、実は、私がタバコをやめた同じ1977年5月に、札幌で、黒木俊郎弁護士の呼びかけで「非喫煙者を守る会」が結成されており、この団体が、我が国で初めて〝タバコを吸わない人たちの会”の誕生でした。さらにその年の秋、名古屋でウーマンリブの女性たちが声を上げて「タバコの害を追放する女たちの会」(発足後すぐに「人びとの会」と改称)が、全く横の連絡も何もなしに運動を始めていたのです。従って、「嫌煙権確立をめざす人びとの会」は……3番目だったわけですが、やはり「嫌煙権」というネーミングの面白さから、メディアが大きく取り上げて、それこそ「燎原の火」のように、全国に広がっていきました”
“当時「流行語大賞」があれば、この「嫌煙権」が、1978年のナンバー1となっていたことは想像に難くありません”
“ その年から43年、国会では「改正健康増進法」が、そして「東京都受動喫煙防止条例」がすでに施行され、タバコの煙に悩まされる頻度は激減してはいますが、まだまだ職場、飲食店、居酒屋などでの受動喫煙被害は全面解決には至っておらず、また、歩行喫煙や公園の喫煙問題も現在、大きな社会問題として残されています”
“最近ではタバコ各社の「新型タバコ」の拡販政策も目に余り、まだまだ禁煙・嫌煙権運動の手を緩めるわけには参りません”
[当サイト関連既報]※他にもありますので、検索窓で引いてみてください。
渡辺文学理事が外国紙に登場 ’19年1月
路上禁煙の千代田区で違反する人たち~「タバコ問題情報センター」が区議会へ陳情・請願を進めます ’19年2月
灰皿を置き続ける違反銭湯の問題、保健所から再度の回答がありました。が…?! ’20年8月
“タバコ吸い「ながら」運転”も取り締まりの対象に! ’19年12月
火が消えたタバコの吸い殻からも有害物質が発生…! 消しても消えない受動喫煙 ’20年2月
1978年当時、私は富山県朝日町の富山県立泊高校の生徒でした。高校の教室や校舎の中で多くの同級生が喫煙していたのを覚えています。また、職員室では多くの教師も喫煙していました。今では想像も出来ない状況です。
しかも喫煙に対してクレームを言っても誰も取り合いませんでした。それどころか逆に胸倉をつかまれ、胸や腹を殴られ窓から突き落とされ殺されそうになりました。また、教師の中には自宅でタバコ店を営んでいる人もいました。
当時の朝日町は町中に「タバコは地元で買いましょう」との看板があり、町も喫煙を奨励してしました。さらに当時の国鉄泊駅は駅舎の中やホーム上で喫煙している人が非常に多く苦しかったです。また当時の国鉄の列車は客車の中には灰皿があり、多くの人が列車の中で喫煙していました。
その影響で今でも泊高校の校舎を見ると、当時の恐怖が思い出され頭が痛くなります。「嫌煙権」という言葉も普及していなく、受動喫煙の苦しさを言っても家族も学校も行政も誰も取り合いませんでした。
私のfacebookのタイムラインの1978年の位置に高校時代の写真を載せました。
https://www.facebook.com/simosawa/