じつは気づかなくても受動喫煙にあって体内コチニン濃度が高まっている!
明らかにタバコ臭がするのに、「ぜんぜん臭わない」という人が、よくいます。これは喫煙者に限らず、吸わない人でも多くいます。
私たちのように、つねに受動喫煙という被害を意識している者にとって、被害者の苦しみを理解できない鈍感な人は不思議に思いますが、こちらが気にしすぎだとか被害妄想のような顔をされることもあり、真剣に被害を訴えている者としては、孤立を感じたり、腹が立ったりすることもあります。
そんな相手には、この事実を教えてあげましょう。
副流煙に晒されていないと思っている人の多くが実際には晒されている可能性、フロリダ大学研究報告
=『@DIME(アットダイム)』2023.10.08=
以下抜粋、「……」は文省略・太字化は引用者によります。
“自分は副流煙(他人が吸っているタバコの燃焼部分から立ち上る煙)にさらされていないと思っている人の多くが、実際には副流煙にさらされている……新たな研究で明らかに”
“血液検査では、調査対象者の半数以上が過去数日内に副流煙にさらされていたことが示されたにもかかわらず、大半はその自覚がなかった”
“「副流煙曝露に安全なレベルはなく、長期間の曝露は……多くの慢性疾患のリスクを高める可能性……人々が防御措置を講じることができるように、自分が副流煙に曝露していることに気付いてほしいと思っている」”
“非喫煙者1万3,503人のデータが分析……タバコ製品への曝露(ニコチン曝露)はないと報告したが、血清中のコチニン(ニコチンの体内での代謝産物)が検出可能な値……であった場合を「ニコチン曝露の過小報告」と見なし……結果、参加者の22.0%がニコチン曝露のあったことを自己報告し、51.2%で血清コチニンレベルからニコチン曝露が確認され、34.6%がニコチン曝露を過小報告していたことが明らかに”
“コチニンが検出可能レベルだった参加者に占める過小報告者の割合は67.6%に上った”
“なぜ、参加者の多くがニコチンに曝露していることに気が付かなかったのだろうか。
……「低レベルの曝露であれば、気付かない可能性もある。公共の場で、周囲の誰かがタバコを吸っていることに気が付かなかったという状況は考えられる。あるいは、わずかな曝露であれば、忘れてしまう可能性もある」”“今回の結果を米国全土に当てはめると、およそ5600万人が、気付かないうちに有害な副流煙に日常的にさらされていると計算された”
被害相談者には、「以前は煙もうもうの居酒屋でも平気で行けた」「受動喫煙なんて意識したことがなかった」が、住宅や職場で日常的に受動喫煙にあうようになり、発症してから、わずかな臭い、三次喫煙でも苦しくなるようになった、という人が、多くいます。
「望まない受動喫煙」などという日本語としておかしい表現はやめ、気にならなくても受動喫煙は問題であると認識しましょう。
[当サイト関連既報] ※他にもありますので、検索窓やカテゴリーで引いてみてください。
「副流煙」と「受動喫煙」 違いは? / 三次喫煙=サードハンドスモークは受動喫煙か? ’18年8月
主流煙とは?副流煙とは?呼出煙とは? ’19年2月
子どもの受動喫煙撲滅へ、コチニン(ニコチン代謝物)測定を実施 ~ 大阪府寝屋川市 ’21年11月
「喫煙者を加害者扱い」??…「望まない受動喫煙」って何?! ’19年10月
中国新聞に短い記事が掲載されていました。
(「受動喫煙やぽい捨て対策は」広島市初会合 医師会やJTなどと議論 →ネット記事 広島市内の受動喫煙や吸い殻ぽい捨て防止を 市が懇談会設置 JR横川駅一帯で優先対策へ)
記事の中で、
“ 医師会の委員は、禁煙外来の受診動機として喫煙場所の減少を挙げる患者が多いとし、「吸う所を減らすのが大事」と指摘。
一方、JTの委員は、「吸う、捨てる場所があればそこに収まる。なければ吸い放題、捨て放題になる」と述べた。”
とあります。
「なければ吸い放題、捨て放題になる」というフレーズが常軌を逸しています。
仮に、吸う場所、捨てる場所を設けて、そこに(吸殻や喫煙者が)納まったとしても、受動喫煙は絶対に防げないでしょう。
児童によるタバコの誤飲/誤食事故、防ぐことのできない受動喫煙、喫煙による患者量産、増加する医療費、それに伴って上げられる保険料、医療費を口実に上げられていく税金・・・
タバコ販売やめるべきです。JT法は形骸化させておいて、後からなくせばいいと思います。
喫煙者にしても、はじめこそ、戸惑いはするだろうけれども、なければないで、困らないでしょう。
困るのはタバコ会社やタバコ農家、利権がらみの人たちだろうから、真に公益性のある会社に作り変えたり、有益な作物生産するなどして、その利権にのっかって頂きたい。
一刻も早く、受動喫煙が撲滅され、「望まない受動喫煙」という滑稽で、恥ずかしい表現を見なくてもよくなる日がきますように。